昭和47年2月18日 月例祭



 折角信心をさせて頂くので御座いますから、信心をさせて頂いておると云う事、お参りをさせて頂いておると云う事、修行をさせて頂いておると云う事、そういう信心をしておる、お参りをしておる、修行をさせて頂いておるという、その印というか所謂手応えと言う様な物がです、感じられなければ信心の値打ちはないと思うんですね。そこに打ち込めば打ち込んだだけの手応えを感ずるから信心が愈々有り難いものになってっ来るんです、またそういう信心でなからなければ力にはなりません、ね、
 ですから信心は誰の為にするでもない、自分自身のいうなら助かりの為に、しかも自分が信心によって助かって行くその姿と言うものが自分にも分かる、ね、それが有り難いと言う事がです、ね、いよいよ密なものに、いよいよ的確なものになって行くと云う所に信心の値打ちがあり、信心の成長があるので御座います。どうでしょうか皆さん、ね、信心をさせて頂いておるという手応えを感じておられるだろうか、ただ、お参りをする、お話を頂く、何とはなしに良かお話とまあね。
 まあ為になる話とお取次ぎを頂いてお願いをする、矢張りおかげを受けると頼まんよりか、やっぱり頼むの方がおかげが受ける。また気分もそれで安らぐ、まあそういう程度の信心をしておる人が沢山居ろうかと思います。それでは信心の稽古をさせて頂いておると云えん、信心の稽古をさせて頂いたら、稽古をさせて頂いた後が見えなければならん、ね、いうならば、手応えがなかなければいけん、手応えがなかなければです、それこそ、のれんに腕を押すというんですか。
 力がない頼りがない、それでやはり信心を長年続いておるというだけでは信心を頂いておる値打ちが無いので御座います。どうでしょうか皆さん、手応えを感じておられるでしょうか、ね。先ほど、前講を上野先生が勤めさせて頂いておりまました。あの、お話の中から、ね、お父さんのお立ち日にあたる、この16日がお立ち日で御座います。式年と言う訳じゃない、ね、3年とか5年とかという式年じゃないですけれども、お立ち日だからというので、前々から心の準備もさせて頂いて、ね。
 そして玉串の一つも挙げさせて頂き、頂いて御霊様に喜んで頂きたいという願いを前々からたてておった。真心まぁだなんと言うても自分でどうと言う事出来ん、まあ修行の身分で御座いますから、それでもそれはそれなりに一生懸命本当に御霊様が喜んで頂く、ね、神様にも喜んで頂ける様な心の状態やら、または、お礼やらもして頂きたいと、もう心から願う、所が其の日は丁度日田の方が支部の共励会でございますし、私は矢次さんの例年、当時の謝恩祭で御座いましたから、そちらへ参ります。ね。
 それでその夜の当番を承っておりましたのが幹三郎であった。だからそれこそ、幹三郎先生と一生懸命お縋りさせて頂いてお願いをさせて頂いた。本当にお供え物も思いも掛けない所から思いも掛けけないしかも、父の好物父が喜んでくれるだろうと思われる様なお供えが、ね、少しづつでも集まってきた。いわゆる娘の真心である。御霊様が喜ばれた事であろう、いや喜ばれた印がその様な形になって現れた、いわゆる手応えなんです、ね。今日は立ち日だから、お父さんの立ち日だから。
 お茶なっと沸かさにゃもう普通では申します。そういう事でもです前々からちょっと祈りに祈り願いに願い、そして自分色々出来はしませんのだけれども、願いに願い祈りに祈っておかげを頂かせて頂きゃ、上野愛子がお祭りを仕えてもらうのじゃない、神様が仕えさせて下さるなあと、思いで出来るんだ、真心で出来るのだという、所謂手応えがあったそこで、大変な感動をしたというお話をしておりましたですね。
 御祈念、そして、御霊様のご挨拶が済んでから、幹三郎が御結界に着きましてから、必ず、一口お話を聞いて頂くんです、夜の御祈念がすんだ後に皆さんに聞いて頂く、其の時の幹三郎のお話で、また尚更一段と感動したと、言うておる、さっきお話しておられましたね、僕は御霊様のそう云う事拝んだ事がない。また僕ぐらいな者でとても出来るだろうかと思うけれども、誰も、若先生もおらにゃきゃ、博道先生もおらん、久富先生もおりなさらん、親先生はなおさらおられないという所。
 どうでも、当番の僕がしなければならんので、もうそれこそ一生懸命で神様にもお願いをする、御霊様にも信心も出来ない僕が、若輩の自分が今日は上野先生のところのお父さんの、ね、お立ち日であるというので、真心込めてお供えなどもこうなさっておられるけれども、それを取り次がせて頂く僕自身が信心がでけておりませんから、と一心におすがりをしたと言うお話をしたそうです。ね。
 一心にお縋りをしたそしたら、上野先生僕はね初めてじゃった、合掌してこうやって一生懸命御祈念させてもらいよったら、この合掌しておる指の先が痺れて来てね、じっとこう心に響いて来る、体にも心にも響いて来る、はぁ御霊様が受けて下さったと思うたら、僕は大変に有り難かった、嬉しかったと言うお話をしたという。一心を持ってすれば、僕のような若輩の者の心でも、神様が受けて下さるんだ、御霊様が受けて下さるんだと思うたら、今日はこんなおかげを頂いたという。
 御祈念が済んだ後の教話にそういうおかげを頂いた。ね。いわゆる手応えなんです。ね。私はね一生懸命拝むと言うても、お取次ぎを頂くと言うても、日にちの信心修行をさせて頂くというても、その家業の行の中に、これこそ、信心をさせて頂いておる印と、お取次ぎを頂いておる、是が手応えと思われる様な、私は日々でなからなければ信心は成長しないと思う。だからというてそれが、なら簡単に頂けるとは思われませんけれども、ね、其処ん所を一つの願いとしての信心がなされて行く内にです。
 繰り返し繰り返しなされていく内に、いうなら、百発百中とでももうしましょうか、いちいち自分の心に体にその手応えを感じさせて頂けれる様なおかげが頂かれるので御座います。ね。お願いしとるけんで良かろう、いんやお願いをしとりゃやっぱりおかげを頂いたと、おかげを頂くという事も手応えかもしれんけれども、もし、なら自分の思い通りにならなかったら手応えじゃないじゃない、例え自分の思い様にならなくてもそこに、手応えが感じられるという所にです。
 はぁ是は自分の願いが小さかった、自分の願いが間違えておった、ね、神様がまだ他に、御神意、御深慮があるに違いはないと、其の事もまた有り難いと言う事になるのです。ね。私は信心生活と言うのは、神様のそういう働きを絶えず、頂かせて頂いておる手応えを感じる稽古だと思います。ね。手応えなしに、例えば稽古をするなんて、本当に信心の値打ちは無い。打ち込めば打ち込んだけの手応えを感ずる。
 そこでです私共が信心の所謂、どういう所に焦点を置いて稽古させて頂いたらいちいち手応えのある様な日常生活が送られるかと、言う事になるのです。今朝からの御理解に、御神訓の「疑いを離れて、広き真の大道を開いてみよ。わが身は神徳の中に生かされてある」という御教えで御座いましたね。疑いを離れて皆さんにあたた達は神様を疑うとろうと、いんや神様を信じておりますと言う方ばっかりだと思います。
 だからこそお参りもしておる、だからこそ日々金光様、親先生とお縋りをさせて頂いておるのだと、成程、だから其の程度なら信じておる、ね、けれども、ね、なら神様を絶対の所までは、信じ切っていないと言う事、ですから、ね、わが身は、神徳の中に生かされてあるなあ、今日は私がいう日々信心をさせて頂いておる其の手応えを感ずると云う事は、わが身は、神徳の中に生かされておるんだなぁと言う事を、分かると言う事である。ね。天地(あまつち)は神の懐と、ね。
 天地は神様の懐の中、其の懐の中におると云う事は、事実だけれども、お懐にあるんだという事実を信じていないのです、ね、神様の懐の中にあるんだという事実が信じられる所に、ね、乳飲み子がお腹がすけば、もうそのまま父、母親の乳房を求めたりまたは、それに、口をもって行ったり、お乳が与えられる様なもんです、お懐の中なのです、必要なものが必要に応じて、痛ければさすってもらい、痒いければかいて貰い、お腹がすいたら与えられると言う様にです、ね。
 理屈で聞けば成程、天地(あまつち)は神様のお懐の中であると言う事が分かるのですけれども、成程天地の親神様のお懐の中にあるんだなと分かった時、神徳の中に生かされておると言う事が分かるのです。神徳の中に生かされておると云う事が分かると言う事はそれを反していうとです、ね、必要な時には必要な物が与えられると言う程しのおかげを頂くから、成程神様わが身は神徳の中に生かされてあるんだなと分かる。ね。
 わが身は神徳の中に生かされてある、その事をです、いよいよ、心に感じさせて頂く生活、神徳の中に生かされてある喜びを、ね、謳歌しながら日常生活が出来る生活が信心生活。お願いをしておかげを頂いた、お取次ぎを頂いて是が成就した、やっぱり神様は御座ると云う様な、ポットン、ポツン、ポツンとし様なおかげじゃないのである。ね。本当に神様のお懐の中にある自分だと、それを実感させて貰わなければおられない、成程親様じゃない、親神だなと分かると云う事、ね。
 そういう信心をお互いが求めて行かなければならん、其の手立てとして、疑いを離れてという自分の心の中にすっきりしないものをすっきりして行く所の修行が必要になって来るので御座います。今日、午後の奉仕をさせて頂く時に、ある教会の、長年御信心をなさっておられる、奥様は学校の先生でもした人だけ、中々教養もあるし、お父さんが信心、信心と言うけれども、中々、その、教会に参らん、2、3日前も参ってきて娘がどうもちょっと行き遅れておる。
 ならそげんなこっちゃお前、何時までも良か縁がないぞと、いうてやりたいのですけれども、合楽にお参りしたら先生が言うな、言うなと仰るから言わんで辛抱しておるけれども、どうもこの頃目に余る事があって出来んから、是非いっぺん娘と家内がここにお引き寄せを頂く様にと言う願いがしてあった。所が今日はその娘さんとその頑固なお母さんと二人が参った。ね。神経痛で足が曲がらん、それでそのお父さんが言われた事はです、お前が合楽に参るなら絶対座るるごとなるち。
 そんなこつがあなたあるもんですかち、まあ、だまされたと思うちからいっちょ参れというて、今日は、その、重い石、砂を引っ張ってきた訳、(笑い)。そして、あそこで御理解をこうやって頂きようなさった、足を投げ出してから、それから、私が今日座らせて頂きましたが、すぐここに見えましたら、ちゃんとそこに座っちゃりすもの、ほうらお前座っとるじゃねえかっち、ご主人が言いよんなさいます。
 はぁおかげを頂いたちいうちから、初めて、その、目に涙流してからいいなさいます。気が付かなかった、そしてから、すぐまた足がこう投げなさいました、自分でも座られんと思うちゃる訳です。ね、それから私は観念の話をしたんです。ね、最近頂いておる、ね、もう自分でが立たれん、自分は座られんと思うとる、其の観念が邪魔をしとる、ね。それから、もういっぺん座りなさいちいいや、どうでん座りなさる(笑い)
 もう観念しちゃる、自分で簡単に座られるとじゃないとこう思うちゃる、それでまたどうでんこうでん参って来なさいち、まあ色々お話させて頂いた事でした。ね。そして私が日田の、今朝の御理解の中にあります、綾部さんの事をお話させて頂いておりましたら、高芝さんと二人で丁度、まあ後ろの方に参ってみえた、ほら今お話をしよったお方は此のこの方の事ですよと言うて、まあご本人を前にして又改めて綾部さんにも聞いてもらう積りでお話をさせて頂いた。
 今朝から私御神前に出らせて頂きましたら、こんな具合に横を向いた緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)を着た丁度あの何ちいうんですかね、神ぐ皇后ち言うかね神ぐ皇后、三韓征伐の時の御衣装の様な感じです。緋縅の鎧を着た人がもう小さい、こんな半分ぐらいな巻物をこうもって、こうやってそのお供えをしておられる所を頂いた。誰じゃろうか思うたら、其の人がじーっとこっちを向いたら、なんと綾部さんであった、もうその綾部さんがもうそれこそ、博多人形のごと可愛いらしかった。
 ちょっと想像してみて下さい、綾部さんに一つ緋縅の鎧を着せて、ね、そしてうやうやしく神様にこうお供えをしておられる姿、もうそれはもう本当に可愛いらしい可愛いらしい綾部さんのそういう姿を御心眼で頂いた。昨日お参りをさせて頂いて親先生に質問せなん事があったけれども、丁度私が休んでおりましたからあのう質問が出来なかったというのは其の前に26日の日に秋永先生から、綾部さんアンタの信心は丁度カラーテレビの崩れたつのごたるげなばいち、親先生がそげん言いなさったっち言うた、(笑い)
 カラーテレビの崩れたつのごたる。はぁえらいカラーがきれいに写っとるかと思ったら、見よるとピシャッとまた元の白黒になってしもうとる、(笑い)ね、私のテレビが今そげんなんなふうです。えらい見事なカラーがこう映像に出とるかと思うと、プツッとそうなってしまう、それで踏んだりケッタリするたい、そすとねピシャッと今度はまた赤(あこ)うなるですよ、面白いテレビですよ。
 だから貴方の信心は丁度椛目のテレビごたるち、親先生が言いなさったですよっち、青など青じゃないけれども、白になったり赤うなったり、それだいたい秋永先生どんな事ですかっち。聞いたばってん、もう所謂まあカッ―ときちゃる訳ですたいね、まあ白かつが赤うなっちゃる、だからそれですたい云う事ですばってんか、まあそげん迄では言われんもんじゃから、親先生その事をようと聞かにゃんと言う話を、丁度私がここでその親子三人で参って来とる方達にしよる所じゃった。
 だから自分もその事ばずうっとこう聞きよんなさった。本当に言われてみたら、私の信心と言うのは崩れたテレビの様なもんで、赤う写っとるかと思いやすぐ次に白うなっとる、本当に有り難い有り難いというてニコニコしよるかと思えば、その次にはもうぶっとしとる、ね、もう本当に親先生のおかげで安心しとりますと言うかと思うと、もう次には不安で不安でたまらん様な状態になっておると云う事がです、はぁ成程自分は椛目のテレビの様、合楽のテレビの様なもんだと言う事が後で分かられた。ね。
 そして今朝の私が頂いた、その綾部さんの、所謂その武者人形の様な、ね、しかもこんな小さい巻物をお供えしておられると言うこの姿をです、また次に続けて話した。成程青うなったり、赤うなったりし御座るけれども、はぁ本当に自分が有難い、有難いと言い寄るけれども、まだ自分の有難いのは本当なもんじゃ無いなあと悟らせて頂いて、チャンネルを切り替えたりこうこう回したり、こうしてみると言う事。
 そしてこういう、例えばお取次ぎを頂いてお願いをしておる事であるから、そんなに心配する事はいらんじゃないかと自分の心に言い聞かせても、やはり不安である。それはいうならば、赤いのが青なっとるであるから、これは自分の所が狂っておるなら間違っておるのだと、自分のそうした観念をお供えしなければならないと。今日の御理解朝の御理解で言うと、ね、お供えでも自分でしとるごと思うとるけれども、させられておるのだと、折角させて頂くならば。
 百円よりも千円がよい、千円よりも一万円のお供えをさせて頂ける程しのおかげを頂きたい、それでは、そういう稽古をしなければいかん、何時もかつも百円じゃいかん、次なら二百円お供えしてみる、次には三百円をお供えさせて頂いて見る、百円をお供えしよる所をいっぺんに千円お供えしよるとやりそこなう。そこでそういう稽古をさせて頂いて、成程、神様がお祭りを仕えさせて頂くものだ。
 お供えは神様がさせて頂くものだと分からせて頂く所に、そういう観念を一つ一つお供えして行く、そういう小さいけれども、観念のこんな小さい巻物をお供えして行かれる其の姿と言うものは神様がご覧になって神様が目を細うしてまあ、ね、可愛いらしい氏子だと目を止めなさると云う事になるのです。お互いの観念ね、どうかある時にはすぐ医者、先生に頼むよりか、人間に頼むが早かと、ならこげんなんことだって神様にお願いするか人間に頼んだ方が良いと言った様な観念をです。
 捨てなければ所謂今朝から頂きます所の、ね、疑いを離れて、わが真の大道を開きみる事もわが身は神徳の中に生かされてあるという事を分からんのです。神様から成程させて頂いておるんだなと、上野先生が思いに思いを込めて、ね、御霊様のお祭りを奉仕させて頂いた様にです。成程私がしたのじゃない、神様がさせて下さったんだなという所に、神徳の中に生かされてあるんだなと言う事を感じる様な物なんですね。
 皆さんが自分でお供えをしとる間は本当なおかげになりません、神様から許されて、神様にさせて頂いておる、しかも去年は百円だったけれども、今年は二百円の、例えば示威を許されておる、おかげを頂いておると云う様にですだんだん、其の観念のお供えが段々できて来なければいけないね。ちょいとづつする様なごたる御神米でおかげの頂ける自信が出来なきゃいかん、風邪ぐらいな事は、もう御神酒だけでおかげが頂けれると言う確信を持たなきゃいけん、ね。
 そして段々どう云う様な、例えば、医者はもう助からんと言うような大病であっても、神様で、神様のお働きを持っておかげが頂けれる様な、段々おかげも頂いて来るのである。観念のお供えと言うのは、だから是は生涯かけての事なのですけれども、例えば、1が分かったら2が、2が分かったら3と云う様に、それが進んでいかなければ信心が進むと言う事はいえない、ね、
 だからこそ、手応えを感ずるのです。何時も百円じゃったら、いっちょん手応えを感じん、それこそ、自分がしよるとんごと思いよる。ね。どうぞ、おかげを頂いて、せめて日々二百円ぐらいはお供えさせて頂きたい、お許しが頂きたいと願う所からです、ね、少しは冒険であっても、もう、本当に二百円のお供えをして見るのだと、所が、次から二百円は必ず神様が下さる、と言う所から手応えを感ずるだけではなくて、二百円の、いわば、信心に進んだ訳である。
 それが三百円に、五百円に進んでいかにゃん、これは金銭だけの事だけではありません、もう一事が万事、日常生活のすべての事がです、そういう手応えを感じさせて頂けれる、信心の修練というかね、稽古がなされなければいけんのです。ね。そこに手応えを、成程、神様のおかげを頂かなければという手応えを感ずる所に、生まれて来るのが有り難いと言う心なんです、または、勿体無いと言う心なんです、其の有り難いと言う心が、勿体無いという心がいよいよを持って育てられると言う事。ね。
 一生懸命に、例えば、お参りをするから神様に好かれると言う事じゃない、神様に愛されると言う事ではない、出来んなりにもです、例えば少しづつでも、自分の、その、そういう今までの観念を捨てて行こう、そういう観念をお供えて行こう神様へ、ね、と言う様な姿勢を取る事を神様が喜んで下さる、神様が、いうならば、いわゆる、可愛い氏子じゃと言う事になるのです。ね。
 先ほど、正義先生がお届けの中に、親先生、今日はおかげを頂きまして、今朝の御祈念に、二番目の息子の正継さんちいうのが、お父さん、今日は僕も朝の御祈念に連れて参ってくれとこういう、私は後から、今日は正継君が参ってましたねと、私もそれは嬉しかった、親に付いて来ると言う事、だから、親の正義さん嬉しくなる、ならんはずはない、今日は其の事のお礼お届けがありました、もう本当にね。
 自分のもう是だけのでは助からん、この神様の信心を頂かなければという信心に付いて来てくれるなら。もうその子には何をやったっちゃよかと言う気がするね。求めれるなら、許されるなら、もう何を与えても良いと云う様な気がする。ね。所謂親の可愛いと言う心がそこに集中される、ね、親の思いに沿うと云う事、そこで親の思いに沿うと云う事がです、ね、お前の長年のいうなら観念がある限りはね。
 わが身は神徳の中に生かされてあるという喜びも、そういう実感も頂けん観念が外れただけ、それだけ有り難くなれるんだと。ね。観念を外して行く、ね、観念のそれを外させて頂くと言う所からです、わが身は神徳の中になる程生かされておるんだなと言う喜びを実感として感じる事が出来る。いゆわる手応えをそこに感ずる事が出来る。折角信心をさせて頂くので御座いますから、ね。
 本当に神様が受けて御座るか、受けてござらんか分からんぐらないな事で、私は拝んだっちゃ参ったっちゃいけん、それだけはピッシャッと是に感じれる所のおかげ、手応えがあるおかげ、ね、そういう手応えを感じるから有り難いと言う事になって来る。今朝から善導寺の原さん達が毎朝一家中で参ってみえます、それでそれこそ親子四人でしたかね、で、参られてからここでお届けされるんです。
 本当にこの十三日会の日のここの帰りにに、ね、常持ちの所で自動車事故にあって、それこそ自動車はもう修繕がきかんごと滅茶苦茶になったけれどもおかげを頂いて、ね、乗せておった善導寺の久保山さんと、それから私の妹の池尻と、それで四人乗っておった、それがおかげを頂いて、本当にまあ、ちょいとこう、青ジンだぐらいの事でおかげを頂いた、原さんだけが此処ん所にこげんな、コブが出来なさいましたけれども、是はまあ、おかげです、喜コブですからね。
 はぁやっぱり喜びの強い方は違うと私は思いました。私は十三日会の時に此処に座って皆んな帰った後座っとったですもん、そしたら久保山さんなんかこげんして来よんなさるのですから、どうしてなったじゃろうかと思いよったら、丁度この下に隠れる位なコブでした、ほうらえらいなのかしなすったら、なんでそれこそこきつけたごつしとる、「ほぉどうしなさったですか」ち言うたら、此処に出来たっちゅうけん、まあそこへんに転びんなさったぐらいかと思いよった。
 そしたら自動車が滅茶苦茶ぐらいになっとるち言う位いに、そうやったけれども、おかげを頂いた、ね、おかげを頂いた。それがその、今日お礼が言われるのが、おかげを頂いて、自動車は使われんごつなりましたけれども、それはもう、本当に不思議な不思議な事で、娘婿である所の上野さんが、お父さん、こう言う自動車の売り物があるから、是はもう買う、とにかくお伺いをする暇もないごと時間あれだった。
 それが今まで乗りよった様な自動車のそれが新車じゃ、しかも5千円づつ2年間ではない20ヶ月払えばよか7万円頭金を払わにゃん、向こうから10万円のお金が来とる、もうおかげを頂いて新しい自動車に乗らせて頂く、成程喜ぶの出たつのもおかげじゃったと云う事がです、ね、私その時後で話した事でしたけれどもね。あの十三日会の時に原さんが、もう私は毎朝あぁやって自動車で親子で参って来ますけれども、他人の人ば乗せとる時には絶対事故にあわんち、私は信念しておりますちいう話をされました。
 あまりの事を言われるなぁと私は思うた。私ですら乗せてもらう時に、たんびたんびに御祈念して乗らにゃおられないのに、私でさえというのはおかしいけれどね。いうなら師匠の私ですら、乗らせて貰うたんびにお願いしなければ乗られんのに、原さんは大変なおかげを頂いた人じゃあるなあ、他人ば乗せておる時なら絶対事故にあわんと言う人が、もうその下の口、一時間後には他人を二人乗せておいてから事故やった、ほらもう乗っとった者はビックリしてからですね、もう妹が言うておりました。
 初めてまさかの時に天地金乃神と言うにおよばん、金光大神助けてくれといえば助けてやると仰る事実を目の当たりにその事故の現場を見てです、もう金光大神をずうっとしてしがみついたという信心も出来たと妹は言うております。ね。おかげでかすり傷もせずにおかげを頂いた、原さんは自動車は悪くなられたけれども、是は大変なおかげであると言う事に、ね。本当に、是はね、例えて言うと、そういう、ね、どげん信心が出けておると言うても、縋らなければ、願わなければおられないのが私達なんだ。
 十三日会の時にみんなお話を聞かれたでしょうけれども、ね、私は他人の人を乗せておる時なら絶対事故にあわんと信念しておるとこういう、だから私がそれはあまりの信心じゃと、私ですら乗らせて頂くたんびに願わにゃんおられんばいといてお話をさせて頂いた。その帰り他人の人が二人も乗っとるとに、やっぱ事故におうとる、けれどもそれを喜びで受けられたおかげです、すぐにはね、おかげで新しい新車に車を乗らせて頂くという素晴らしい手応えです、ね。
 そういう手応えのあるね、良しに付け悪しに付け、間違うたらピシャッとやられるだけのです、是は原さんの信心が素晴らしい証拠なんです。言うた事、思うた事が間違うとる事は、そんな大変、対した事をと、例えば神様が仰っておられる、そして、すみませんと言う事になったら、次にはもう、そのすみませんに神様が呆けたごつして新しがとをこうーやるです。
 (   聞き取れない    )
 皆さんから聞かんけれどもです、新しい新車だそうですよ、しかもなんかのその事情、いろんな事情があって、もう何かいろんなお金を納めてしもうちょるげな、それでもうお金は一変んにいらんから、5千円づつばっかり払うてもらえやええからという、その20ヶ月払わせて頂かんならん、だから私原さんに申しましたご主人の方へ、ね、10万円貰うたけん10万円で新車が来るとならおかげ頂いたばってん、5千円づつもあんた毎月20ヶ月も払わにゃんけん。
 おかげじゃなかごたる思いどんしなさんなち私は申しました。ね。そげんなん事じゃ、自分が払うとじゃなかばい、まあ是から毎月5千円づつは神様から払わせて頂くんだと言わせて頂いて、ならこの支払いが成就した時にです、成程自分が払うたつじゃなかった、神様から払わせて下さったなあと言う実感がです、手応えなんです。それが、なら自動車が新車が来たからと言う有り難いのではなくて、その手応えを自分の心に感じ取らせて頂いたと云う事がおかげなんです、それが力になる。ね。
 どうでも皆さんその良しに付け悪しに付けてです、手応えの頂けれる信心を願わなければいけません。その為にはやはり例えば観念の、愈々お供えさせて頂く、ね、小さい所から、ね。今日も高芝さんに申しました、もう先生私が例えば御用があってから、ここから遅うなる、そすともう家はちんちろ舞しょるけん気が気じゃたまらん、所が私がここで御用を頂いておる間は、家の方では暇であった、もう帰った途端から忙しゅうなるという体験を何時もあんた頂きよろうがのうとこういう、ね、
  (聞き取れないずいぃと朝まで続いとる)
 成程神様は生きて御座るるなぁという、そういう体験をさせて頂きよるのじゃから。そなら神様の御用の時に、さぁもう綾部さんのごたるとが参って来よって、はよ帰ろう、もう帰ろう、けそうけそせんでん良かろうがち。
 此処にきは少しスキットしたお供え出来たらどうじゃろうかというて、今朝から申しましたがね、観念のお供えとはそう云う事なんです。まだ観念と言う事は、その、一人一人によって違うんですから、ね、スキットした観念がお供えの出来れば出来ただけ、言うならば、力を受けた事になり、疑いを離れた世界に住む事が出来るのであり、わが身は神徳の中にあるという、その神徳の範囲がです、千円よりも1万円と云う様に、範囲が広うなる所のおかげが頂かれて行く事を楽しみに信心させてもらわにゃいけんですね。
   どうぞ。